ありあまる日常

何も感じていないようで、ありあまるほど感じていることがある日常を紹介

時間が進むのを楽しむ

現代人はどんどんせっかちになっているのだと、

携帯の速度制限にかかり思う。

 

何でもかんでも

早くできるものを追い求め、

それを知ってしまった人は、

少しでも遅くなると、

遅い遅いとせっかちになり、

ストレスを感じてしまう。

 

すごい時代だと思う。

現在携帯はそのスピードを、

「データ容量」として売っているのである。

スピードが遅くても使えないことはないのに。

 

 

これだけスピードを追い求めて、

人は何をそんなに生き急いでいるのだろうか。

 

そんなこと言うなんてお爺さんみたい。

なんてそんなことはないと思う。

 

いつも生き急いでいるこそ、

今を見つめて、

時間が進むのを楽しんでもいいと思う。

 

音楽を垂れ流しするのではなく、

一つ一つの音を聞き、

一語一語の歌詞について考える。

 

ただ歩くのではなく、

流れる雲を、

流れる車を、

ただ見るのもいいと思う。

 

携帯の速度制限にストレスを感じるのではなく、

自分の携帯、

速度焦らすなー。

なんて自分と携帯との友好関係を示してみたり。

 

楽しもうと思いながら、

結局携帯の速度制限により、

アプリのダウンロードが途中まででタイムアウトになってしまい、

いつまで経ってもダウンロードできなくてストレスを溜める自分である。

焦りと不安

自分の不注意で怪我をして、

痛みが治まらず自分で救急車を。

明日も仕事だし、

ある程度痛み我慢して仕事するしかないか。

なんてことを考えながら、

大したことない怪我であってくれなんて、

甘い考えを、

いや願いだったと思うが、

そんなことを考えながら救急車の車中。

 

救急隊員の一言で一掃される。

「まぁ、骨折はしてるでしょうね」

簡単に言ってくれんな、

医者でもないくせに、

なんて思いながら、

骨折でないことを祈り、

病院の救急治療室へ

 

医者の一言

「折れてると思うけど、一応レントゲン撮ろうか」

もうそのときからテンションダウン。

それでなくても痛いのに、

頭の中はどれくらいで治んのかなぁより、

明日どうしようの方で頭がいっぱい。

 

レントゲン撮って医者は言う。

「やっぱり折れてるね」

「手術する?それともギプスして回復するの待つ?」

「とりあえずまた明日来て」

 

それでも頭の中は、

明日どうしようの一点張り。

 

とりあえず痛みは全く変わらなかったけど、

仮ギプスみたいなのして家帰ったものの、

もう痛すぎて叫んじゃう。

あ゛ぁー、

いったー、

ぐぁあー。

 

でもそんな叫んでる場合でもなく、

上司に連絡。

少しは譴責してもいいのにってくらい、

「なったもんは仕方ないしゆっくり休んで」

逆に職場でも自分の存在って何ってくらいアッサリ。

 

 その後、

入院して、

手術して、

今に至るわけだが、

今後どうなるのだろうという焦りと不安が離れない。

 

骨折したところもそう。

暮らしについてもそう。

仕事についてもそう。

お金についてもそう。

 

ある程度道筋が立てられたら、

この不安は一気に解消られるのだろうし、

周りから言われることは、

一旦身体を万全に持っていくことが先決とだけ。

 

分かってるよそんなこと。

だからリハビリも多めにしてるし、

考えうる骨折前の身体に戻すために出来ることをやってる。

 

でも本当にそれだけでいいの?

こんなことできるならしておいてって言われてる方が、

未来が見えてるから幾分か楽に感じる。

 

未来が見えないってこんなに焦ったり、

不安を感じたりするもんだなと、

今回の骨折で思い知らさせる。

 

でも結局焦りや不安を感じたところで、

今が変わるわけじゃない。

今できることを精一杯することでしか、

現状は変わらないんだから。

他人は自分のモノじゃない

事の始まりは自分が異動したことから。

前のところで数人の仲のいい人たちがいて、

大体飲みに行くメンバーといえばその人たちだった。

自分が異動するとなったとき、

自分が鎹のような役をしていたため、

大丈夫か?と異動するまでに会を重ね、

自分がいなくてもやっていけるように仕向けた。

 

いざ自分が異動して、

異動先では仮面舞踏会。

仮面を被らないとやっていけないような人たち。

疲れるな。

なんてそんなことを考えていた矢先、

前のところでは自分を除いたメンバーが

楽しそうに飲み会を重ねている。

 

この感情は何なんだろう。

なんか悲しいというか、

悔しいというか。

むかつくというか。

なんで自分を呼んでくれないんだろうか。

異動したらもう用なしですか。

 

鎹となって自分たちを繋げたのは自分なのに、

いなくなったらおしまいですか。

 

っていうどこにもあてられない感情を抱きながら、

異動先で仮面を被っている自分が

虚しくも悲しく、

苛立ちだけが残る。

 

違うか。

所詮、人は自分のモノじゃない。

思い通りに動くものじゃない。

 

じゃあ言えばいいじゃんなんて思っていても、

それを言えない自分がいて、

そういう人間関係しか作ってこなかった、

自分の過ちなのか。

 

この感情をここで吐き出して、

また仮面舞踏会に参加する。

語彙力とは

例えば今、

友人のおめでたい出来事があったとして、

思った感情を言葉にする。

その時に出てくる言葉がいくつあるかということ。

 

おめでとう。

自分も嬉しいよ。

いつまでも幸せにね。

お互いを思い遣らないとだめだよ。

素敵な家庭を築いてね。

 

あなたはいくつの言葉が出てきただろうか。

確かにそういったたくさんの経験を積むことによって、

出てくる言葉の数は違ってくるだろう。

定型文ではあるだろうが。

 

じゃあ経験を積む以外の語彙を増やす方法はないものか。

 

言葉に触れる?

本を読む?

会話をする?

 

このブログを始めて1年。

…言っても20くらいのことしか書いてないが。

語彙力は増えただろうか。

 

書くために言葉を探し、

ブログとして書き溜めたはいいものの、

結局身にはついてないと思う。

 

なぜなら、

自分の言葉になっていないからだ。

自分の言葉として発してないから、

ただのネットで見つけた言葉に過ぎない。

 

ここで書いて、

それを言葉として発してようやく、

語彙力に繋がるのでは。

 

2年目はそうしていこう。

レベルアップした自分になるために。

話さないことから始まる恐怖

私はいつもひとりだった。

ひとりが楽なんだと言い聞かせ、

周りのグループをいつも煙たそうに見ていた。

学校でも仕事でも言葉を発さない。

最小限の言葉で相手に思いを伝える。

 

ほら、たまにいるでしょ。

自分はこういう人間なんだ、って言って無理やり話しかけてくるやつ。

本当に鬱陶しい。自分はこれこれ好きなんだ、君はどう?って。知らねぇよ。

そんな話、私は全く興味がない。

怪訝な顔、話したくない、そんなオーラを出して追い返す。

 

でもそいつは私がどんなに追い返しても毎日声をかけてくる。

「今日は天気良いね」

「このニュース見た?やばいよね」

「見てこの靴。新しく買ったんだ」

何が楽しくて毎日毎日私に話しかけるんだろうか。

面白い?誰とも話さない私を見てかわいそうなんて思っているのなら、

今すぐやめてほしい。

私はそんな風に思われたいがために話さないわけではない。

 

ひとりで生きられる。

そう思っているから話さないのだ。

 

 

でも時折

「私は何のために生きているのだろうか」

「なぜ生まれてきたのだろうか」

そんな思いが私の心に顔をのぞかせる。

 

人とも話さない。

人に興味がない。

 

 

 

 

 

そんなこと言いがかりだ。

本当は興味がある。

あの人の服装かわいいな、どこで買ったんだろう。

あ、あの男の子今日も電車に乗ってる。

あの人面白いな、もっと近くで話聞いてたいな。

 

 

本当は怖いんだ。

話しかけて

怪訝な顔されるんだろうか。

嫌われるんじゃないだろうか。

愛想笑いされて終わるんじゃないだろうか。

変な空気にしたら嫌だな。

 

怖いから言葉を発さない。

そんな自分を演じている。

 

でもいつか。

そんなことを考えながら30年。

 

私は今日もいつもの一日を終える。

何も持っていない

いつも自分は何も持っていないと感じる。

 

誰かには夢が。

誰かには思いが。

自分にはいつも何もないと思ってしまう。

そしてそういうモノを持っている人とは釣り合わないと。

 

夢を持っていたら、

休日でもそれに向かい勉強するなり、

努力するなり何かしらする。

 

自分はいつも何もしていない。

何かを求めてもすぐに諦めてしまう。

飽き性なのだ。

 

本当にしたいと思っていない。

だから最終的に諦めてしまう。

諦め。なんて安易な言葉だろう。

 

人は皆、

何かを求めて生きているはずなのに。

自分は最終的に何を求めているのだろうか。

 

前回のブログにも書いたが、

自分に言い聞かせている好きなもの。

そんなもの本当に求めているものじゃない。

興味のあるものはある。

でもそれはあくまで興味でしかなく、

求めているものではない方が多い。

でも触れなければ求めているものかどうかは分からない。

 

世界は広いし、

まだまだ自分が知らないことはたくさんある。

それをひとつひとつ知る努力を自分はしているだろうか。

コンプレックスだ、

飽き性だとか言って、

現状を変えることを怖がっている。

面倒臭がっている。

 

今のままでいい。

今が楽だから。

 

そんな人生何が面白いんだろうか。

つくづく面倒な心だ。

楽しそうだと何かを始めるのに、

たくさんのデメリットを考え諦める。

 

そんなこと考えず突っ走れる。

そんな自分になりたい。

 

いや、

なるんだ。

どのように感じたのか

自分の話す内容のほとんどは

体験経験を元にしたものだ。

その体験経験で感じたことを

常話すわけだが、

内容の薄さを感じる。

 

嬉しかった。

楽しかった。

面白かった。

悲しかった。

むかついた。

体験経験から上記の言葉を発す。

小学生じゃないんだから。

 

どのように感じ、

どうだったからそう思ったのか。

 

昔からそうだ。

自分の意見がないと言われる。

どのように…

自分の心に深く聞かなければ。

 

これ面白い。

なぜそう思う?

…だから。と。

 

元々このブログを始めた理由は、

自分の語彙力を高めるため。

また自分の考えを深めるため。

それよりも前に自分が常日頃感じたことを

イムリーになぜと聞かなければ、

自分がどう感じてるかなんて思い出せないでしょ。

 

そうしていけば、

自分の考えがより明確に、

生活の中でより深い意見が出来るようになる。

 

よくよく考えると、

今までそういう風に考えていたのって、

色恋沙汰の話ばっかりだった。

だからそういう話になるとよく口が出て、

いつもは固く閉ざされた口も

流暢に言葉が出てくる。

 

これ楽しー。

…なんでだった?

これ美味しい。

…なんでだった?

自分を問い質せば、

いろいろな答えが見つかるかもしれない。