ありあまる日常

何も感じていないようで、ありあまるほど感じていることがある日常を紹介

どこにもぶつけることのできない

この想いをどこにぶつけれれば?

そもそもぶつける必要があるのか?

ぶつけたいと思うのは自己満足ではないのか?

 

そういうことは、

人生生きていたら

多々あるのではないかと思う。

 

所詮はすべて自己満足。

自分のストレスを軽減。

自分の抱えている想いをぶつければ、

今留まっている気持ちが、

違うどこかの方向へ進むんじゃないかとか。

進まないことは分かっていても、

人に共感されることで、

抱えている重さを軽くしたいと思っているからか。

 

人間はそうやって人生を過ごしている。

 

 

無駄に人の心に入り込んで、

それを解消してあげたいとか思っている自分も、

結局そこに対して信頼を得たいからという

自己満足のためであって、

人はというか、

自分は自己満足のために生きている。

 

言い出したらキリはないが、

それをうまいこと利用して、

うまいことぶつけたり、

ぶつけてもらったりすることで、

人間関係は成り立っているのかと思うと、

自己満足は人間世界において、

必要なものなのかもしれない。

 

 

最近よく考える、

2045年に実現されることのひとつで、

AIが発達することで、

人間の考えていることをAIが読み取り、

物事を実現するなんてことが言われているが、

こういう「自己満足」ひとつにしても、

人間の無駄な感情のひとつになりうる可能性もあるんだなとふと思う。

 

 

人間の良さは「感情」なのに、

それを「無駄」ととらえる日も来てしまうのだろうか。

 

感情なんてなければ、

喜怒哀楽がなくなり、

機械的に行動することが出来る。

 

でも喜怒哀楽がなくなることで、

行動に対して理由がなくなり、

それこそ人間である意味がなくなり、

人間はいつか機械的ではなく、

機械になってしまう日がきてしまうのだろうか。