ありあまる日常

何も感じていないようで、ありあまるほど感じていることがある日常を紹介

負の感情を

負の言葉を聞いているときは、

うんうんで済ませられる。

それは相槌だから。

でも聞くのではなく、

見るのは違う。

すごくむず痒く、

苛立ちが心を走る。

 

なぜだろうか。

今まで感じたことはなかったが、

それは相槌で返すことが出来ず、

見過ごすことが出来ないからだろうか。

 

負の言葉に対して、

出来もしないことをあーだこーだという人を

蔑んで見ているのだろうか。

 

人の感情なんてコロコロ変わるし、

人の一挙一動で救われるものだ。

さっきコンビニで煙草を買い、

店員から

「いつもありがとうございます」

という言葉を始めてもらい、

嬉しい気持ちになったことから、

コロコロ変わると言っているのだが、

そうやって救われることもある。

 

負の言葉を吐いた人を見て、

周りの人や

実際に一挙一動でその感情にさせた人は、

何も思わなかったんだろうか。

 

そんなことを考えながら、

今日も一日は過ぎる。

 

 

どこにもぶつけることのできない

この想いをどこにぶつけれれば?

そもそもぶつける必要があるのか?

ぶつけたいと思うのは自己満足ではないのか?

 

そういうことは、

人生生きていたら

多々あるのではないかと思う。

 

所詮はすべて自己満足。

自分のストレスを軽減。

自分の抱えている想いをぶつければ、

今留まっている気持ちが、

違うどこかの方向へ進むんじゃないかとか。

進まないことは分かっていても、

人に共感されることで、

抱えている重さを軽くしたいと思っているからか。

 

人間はそうやって人生を過ごしている。

 

 

無駄に人の心に入り込んで、

それを解消してあげたいとか思っている自分も、

結局そこに対して信頼を得たいからという

自己満足のためであって、

人はというか、

自分は自己満足のために生きている。

 

言い出したらキリはないが、

それをうまいこと利用して、

うまいことぶつけたり、

ぶつけてもらったりすることで、

人間関係は成り立っているのかと思うと、

自己満足は人間世界において、

必要なものなのかもしれない。

 

 

最近よく考える、

2045年に実現されることのひとつで、

AIが発達することで、

人間の考えていることをAIが読み取り、

物事を実現するなんてことが言われているが、

こういう「自己満足」ひとつにしても、

人間の無駄な感情のひとつになりうる可能性もあるんだなとふと思う。

 

 

人間の良さは「感情」なのに、

それを「無駄」ととらえる日も来てしまうのだろうか。

 

感情なんてなければ、

喜怒哀楽がなくなり、

機械的に行動することが出来る。

 

でも喜怒哀楽がなくなることで、

行動に対して理由がなくなり、

それこそ人間である意味がなくなり、

人間はいつか機械的ではなく、

機械になってしまう日がきてしまうのだろうか。

信頼構築力

どんな行動も、

どんな言葉も、

どんな表情も、

すべては相手に信頼されたいから。

 

なぜ?

信頼したいから。

 

なぜ信頼したいの?

何かあったときに助けてもらえるから。

 

 

今までこんなことばっかり考えて生きてきた。

最初っから信頼されるわけじゃないから、

まずは自分から仮の信頼を向ける。

信頼してもらうための頼りになるというような行動。

自分から心をさらけ出し、

自分はこんな人なんだって。

もちろんオブラートに包まれたここだが。

 

そんな自分を見た相手が信頼してくれることで、

ようやく自分も仮の信頼から、

本物の信頼を。

オブラートも溶かして。

 

 

少し戸惑ってることがあって、

今まで自分から仮の信頼を与えてきたけど、

相手から仮の信頼を与えられる機会に遭遇してる。

しかも言葉で直接。

「君を親友だと思ってるから」

今まで正直ここまで直接的ではないが、

自分から仮の信頼を与えてきたから、

相手は戸惑ってたんじゃないかなって。

今自分が抱えてる戸惑いと同じような、

相手を信じきれないという心の靄を。

 

親友だけど、

信じているとは言っていない。

それはこっちも同じか。

信じているようで、

信じていない。

それが人間の本性ってところか。

「今」を生きていたら、

未来の自分が過去に対して、

あの時にあんなことやこんなことをしておけばよかったのにって、

思わなかっただろうに。

 

人は後悔をする生き物なんだろうな。

「今」は「今」必要だと思ってしていることも、

未来になると、

なんてことしてしまったんだろうとか、

あの時なんでこんなことしてたんだろうとか。

 

でも自分にとって、

「今」それが必要だったんだと思う。

「今」それを伝えてたかったんだと思う。

 

「今」に対して

これしよう。

これを伝えよう。

計画を立てて。

そんなことを思っていても、

未来の自分は後悔をするんだ。

 

でもそれでいいんじゃないか。

諦めるんじゃない。

その時必要だった「今」を生きたことで、

今の自分があるんだ。

 

決して無駄じゃない。

新しい「今」を生きるために必要だったんだ。

そう思って、

「今」また新しい一歩を踏み出すんだ。

時間が進むのを楽しむ

現代人はどんどんせっかちになっているのだと、

携帯の速度制限にかかり思う。

 

何でもかんでも

早くできるものを追い求め、

それを知ってしまった人は、

少しでも遅くなると、

遅い遅いとせっかちになり、

ストレスを感じてしまう。

 

すごい時代だと思う。

現在携帯はそのスピードを、

「データ容量」として売っているのである。

スピードが遅くても使えないことはないのに。

 

 

これだけスピードを追い求めて、

人は何をそんなに生き急いでいるのだろうか。

 

そんなこと言うなんてお爺さんみたい。

なんてそんなことはないと思う。

 

いつも生き急いでいるこそ、

今を見つめて、

時間が進むのを楽しんでもいいと思う。

 

音楽を垂れ流しするのではなく、

一つ一つの音を聞き、

一語一語の歌詞について考える。

 

ただ歩くのではなく、

流れる雲を、

流れる車を、

ただ見るのもいいと思う。

 

携帯の速度制限にストレスを感じるのではなく、

自分の携帯、

速度焦らすなー。

なんて自分と携帯との友好関係を示してみたり。

 

楽しもうと思いながら、

結局携帯の速度制限により、

アプリのダウンロードが途中まででタイムアウトになってしまい、

いつまで経ってもダウンロードできなくてストレスを溜める自分である。

焦りと不安

自分の不注意で怪我をして、

痛みが治まらず自分で救急車を。

明日も仕事だし、

ある程度痛み我慢して仕事するしかないか。

なんてことを考えながら、

大したことない怪我であってくれなんて、

甘い考えを、

いや願いだったと思うが、

そんなことを考えながら救急車の車中。

 

救急隊員の一言で一掃される。

「まぁ、骨折はしてるでしょうね」

簡単に言ってくれんな、

医者でもないくせに、

なんて思いながら、

骨折でないことを祈り、

病院の救急治療室へ

 

医者の一言

「折れてると思うけど、一応レントゲン撮ろうか」

もうそのときからテンションダウン。

それでなくても痛いのに、

頭の中はどれくらいで治んのかなぁより、

明日どうしようの方で頭がいっぱい。

 

レントゲン撮って医者は言う。

「やっぱり折れてるね」

「手術する?それともギプスして回復するの待つ?」

「とりあえずまた明日来て」

 

それでも頭の中は、

明日どうしようの一点張り。

 

とりあえず痛みは全く変わらなかったけど、

仮ギプスみたいなのして家帰ったものの、

もう痛すぎて叫んじゃう。

あ゛ぁー、

いったー、

ぐぁあー。

 

でもそんな叫んでる場合でもなく、

上司に連絡。

少しは譴責してもいいのにってくらい、

「なったもんは仕方ないしゆっくり休んで」

逆に職場でも自分の存在って何ってくらいアッサリ。

 

 その後、

入院して、

手術して、

今に至るわけだが、

今後どうなるのだろうという焦りと不安が離れない。

 

骨折したところもそう。

暮らしについてもそう。

仕事についてもそう。

お金についてもそう。

 

ある程度道筋が立てられたら、

この不安は一気に解消られるのだろうし、

周りから言われることは、

一旦身体を万全に持っていくことが先決とだけ。

 

分かってるよそんなこと。

だからリハビリも多めにしてるし、

考えうる骨折前の身体に戻すために出来ることをやってる。

 

でも本当にそれだけでいいの?

こんなことできるならしておいてって言われてる方が、

未来が見えてるから幾分か楽に感じる。

 

未来が見えないってこんなに焦ったり、

不安を感じたりするもんだなと、

今回の骨折で思い知らさせる。

 

でも結局焦りや不安を感じたところで、

今が変わるわけじゃない。

今できることを精一杯することでしか、

現状は変わらないんだから。

他人は自分のモノじゃない

事の始まりは自分が異動したことから。

前のところで数人の仲のいい人たちがいて、

大体飲みに行くメンバーといえばその人たちだった。

自分が異動するとなったとき、

自分が鎹のような役をしていたため、

大丈夫か?と異動するまでに会を重ね、

自分がいなくてもやっていけるように仕向けた。

 

いざ自分が異動して、

異動先では仮面舞踏会。

仮面を被らないとやっていけないような人たち。

疲れるな。

なんてそんなことを考えていた矢先、

前のところでは自分を除いたメンバーが

楽しそうに飲み会を重ねている。

 

この感情は何なんだろう。

なんか悲しいというか、

悔しいというか。

むかつくというか。

なんで自分を呼んでくれないんだろうか。

異動したらもう用なしですか。

 

鎹となって自分たちを繋げたのは自分なのに、

いなくなったらおしまいですか。

 

っていうどこにもあてられない感情を抱きながら、

異動先で仮面を被っている自分が

虚しくも悲しく、

苛立ちだけが残る。

 

違うか。

所詮、人は自分のモノじゃない。

思い通りに動くものじゃない。

 

じゃあ言えばいいじゃんなんて思っていても、

それを言えない自分がいて、

そういう人間関係しか作ってこなかった、

自分の過ちなのか。

 

この感情をここで吐き出して、

また仮面舞踏会に参加する。